ドイツ① 日本とドイツ ふたつの「戦後」  を読みました

NHK出身で、ドイツ ミュンヘン在住25年の熊谷徹さん著の 

『日本とドイツ ふたつの「戦後」』を読みました。

熊谷さんの本は、ドイツ社会やドイツ人の考え方を知りたい自分には最良の書で、5冊くらいは読んでいます。

 

最初に気になったところは、以下の部分でした。

つまり「集団の罪」という考え方を否定するドイツ人たちは、ナチスの時代に 市民1人1人がどう行動したかを基準にして、「個人の罪」を追求する。・・・・

 

個人主義が浸透している、戦後のドイツ社会らしい考え方である。彼らは「政権や上官の命令が常に倫理的であるという保証はない。個人が、命令の倫理について判断しなくてはならない。」と考えているのだ。

私が日本のある講演で、この原則について説明したときには、聴衆から「日本では受け入れにくい考え方だ」という意見が多く出された。・・・

 

むしろ日本では、「上官の命令だから、やむを得ずやった」という弁明に同情心を抱く人が多い。これが「A級戦犯など、罪をかぶって処刑台の露と消えた人々も、不当に加害者にさせられた被害者だ」という擁護論につながっていく。

 

戦後70年の今年、日本も戦争経験者で存命の方がいるうちに、一回国を挙げて戦争の総括をして見なくてはいけないと強く思わせられます。

また、最近の東芝の不適切会計の事件や、日本の大企業の組織の機能不全につながると思うのですが、日本企業では個々の人々の判断能力は問われないどころか、言われたことをそのままやった方が評価され、会社の上層部は自分がやっていることを他人に対して、個人として責任を持たなければいけないという意識に欠けているように見えます。

 

戦後問題については、次のように簡潔に述べています。

 日本では多くの人々が、過去の残虐行為についての謝罪など、過去との対決は他国のために行うと考えている。それは、間違いだ。・・・

 

過去との対決とは、他国のために行うものではなく、自分の国のために行うものである。ドイツ人たちが今も過去との対決を続けているのは、他国のためではない。ナチス時代に体験した破局の再発を防ぎ、自分の国の現在と未来を良くするために行っているのだ。  

 

当たり前と言えば当たり前ですが、国家は自国の利益のために奔走するものですし、ドイツもそうだということなのでしょうが、日本人が情緒的な部分を強調し過ぎて、国益にかなわないことをやっている可能性もあるので、個々の国民感情はそれぞれで良いでしょうが、政治家や官僚は冷静に、国益にかなうのはどのような対処方法が良いのか考えてみる必要があるということでしょう。

 

あと、会社組織の在り方で合理的だと思ったのは以下の部分です。

ドイツ企業で労働組合が持つ発言力は、日本よりはるかに大きい。この国には、「共同決定方式」という独特の制度がある。ドイツの株式会社など特定の企業には、取締役会のお目付け役であり、重要な意思決定機関である監査役会という組織がある。興味深いことに大手企業は、この監査役会に労働者の代表を参加させることを義務づけられている。従業員数が2000人を超える企業では、監査役会のメンバーの半分を、企業別組合である従業員協議会の代表が占めなくてはならない。(従業員数500~2000人の企業では3分の1)

つまりドイツの大手企業では、取締役会のお目付け役の機関に、労働者の代表が席を持ち、大規模なリストラなど企業の重要な決定事項について報告を受け、取締役の任免などについて決定権を持つ。労働者にここまで経営参加を許している制度は、世界でもほとんど例がない。 

 

日本の大企業の機能不全については、国が社外取締役を増やそうと推進しようとしていることから、誰もが知るところなのでしょうが、東芝の例で見る通り社外取締役は、あまり役に立っているようには見えません。

流動性が低い日本企業の取締役に対するチェック機能という意味では、社外取締役でも効果が無ければ、社員の代表自体が関与するのは合理的なようにも見えます。

労働組合が強すぎてドイツのように、公共交通機関のストが多いのも考え物ですが。

 

 他にも原子力発電関係の話も書いてありますが、著者の専門の別著があるのでここでは触れません。

 

さて、この本を読んで一番感じたのは「冷静で合理的な決断」ということです。 

日本は治安もよく住みやすい国ですが、それは高度成長の恩恵に支えられたものです。これからは、高齢化と介護、社会保障費の減少、国債発行額など問題も多く、見通しはあまり良いとは言えません。

今までが良かったからこそ、日本人は物事をあまりよく考えずに、「多くの人がやっているから」、「上司が命令したから」、「大企業がやることは間違いない」、「国に任しておけば良い」「個人では何も変えられない」などと思考停止をしているように見えます。

 

権力者が間違ったことを行った時に、それを抑止する仕組みや、何が良いかを皆で考えて議論するということが日本にも必要な時が来たのではないかと考えさせられました。